長崎旅行記も最終回です(2回に分けて)。
今回は、2日目朝に行った「長崎原爆資料館・平和公園」と3日目午前に行った「軍艦島(端島)」
をみて感じたことです。
2日目朝、小雨ぱらつく中、8時にホテルを出て市電に乗り「松山町」で降りて、原爆資料館へ向かう。8時半の開館前に10数名が待っていた。外国人の方も一人おられた。
耳の挟むイヤフォン付の解説セットを借りて、資料館を回った。
私が長崎の原爆投下について知っていたことは、以下のこと程度であった。
1945年8月9日、6日の広島への投下に続いて原爆が落とされた。
この2つの原爆投下により、またその前後のソ連の参戦などで追い詰められ、日本国政府はポツダム宣言を受諾して、8月15日終戦を迎えた。
原爆の悲惨さは、広島同様に写真など見ていた。特に被爆者の一生残る後遺症。
そして、今回新たに、そして詳しく具体的に知りえたこと(◆)
◆投下時間は1945年8月9日午前11時2分 地上500mで爆発。資料館でその時間を指したままの壊れた時計をいくつかみた。
◆原爆投下地点は、広島、長崎以外の京都など17か所が検討された。8月9日は第一目標は九州小倉であったが、前日の八幡空襲の煙やもやのため、急遽長崎へ向かい、こちらも天候不良のため、戻るろうとした時に一瞬の雲の切れ間に投下した。
◆原爆の被害は、爆発による熱線と火災、爆風そして放射能による。
地表面の温度は爆心地で3,000度から4,000度、1キロメートル離れたところでおよそ
1,800度、1.5キロメートル付近で600度以上に達したものと推定される。
(原爆資料館HPより)
爆心地付近では、あまりの高熱に一瞬のうちに身体が炭化し、内臓の水分さえ蒸発した
と考えられている。(原爆資料館HPより)
爆心地より1キロメートル以内では、一般の家屋は原形をとどめないまでに破壊された。
鉄筋コンクリートの建物などがところどころに残ったが、いずれも建物とは名ばかりの無惨な
状態だった。(原爆資料館HPより)
死者73,884名 負傷者74,909名(1945年12月末までの推計)
(広島は死者約14万名と推定されています)
◆爆心地近くにあった長崎医科大学、病院は壊滅的に破壊され、生き残った医療関係者は救護活動を始めたが、応急措置も十分にできる状況ではなかった。そんな中で当日、近隣の市町村から救援隊が救援列車を走らせて多数の負傷者を沿線の病院に運んだ。そして原爆が何かをも知らない、その救援隊は、被爆者となり苦しむことになる。
◆アメリカは1942年(昭和17年)からマンハッタン計画を発足させ、当時の日本の国家予算をしのぐ巨費を投じて原爆開発を進めた。
◆長崎に投下された原爆は、広島の原爆の威力の1.5倍であり、山に囲まれた地形の長崎ではなく、小倉に落とされていた場合には、北九州と関門海峡、下関に渡り広島以上の被害になっていた可能性もがあった。
以上のことは、原爆資料館で記憶に残り、戻って確認しながら記載したことです。
資料館を出て、原爆落下中心地(最初の写真)、
そして平和記念公園(1955年昭和30年完成)を回り、8月9日になるとテレビでよく見る平和記念像をみてきました。
本日(3回目)で終えようと思った長崎訪問記ですが、軍艦島は明日(4回目)に致します。
長崎の原爆の記録を見て、落下地点に立って思ったことは、この原爆に対しての見方の違いです。そして、戦争そのものに対してもです。
どちらにしても、現在長崎(日本)は、既に復興して繁栄し、そして曲がり角にたっている。
そして今回の震災・・・。
この続きは明日です。
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2011年05月04日
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