2005年02月26日

(2)大学の合気道部で

名簿上は30名ほどの新入部員が入り、実際に稽古を始めたのが18名くらいで、1年目の終わりには半減し、3年目(幹部)の時は4名になっていた。1年目の半年まではそうでもなかったが、夏合宿からかなり厳しいものになり、後半は4時半〜6時半の稽古の後、引き立て稽古といって、先輩からよしといわれるまで投げられっぱなしという受身の稽古。週に2,3回はなぜか裸足でランニング、瑞宝殿(伊達政宗公三代のお墓)の階段でのダッシュ、青葉城址での声だし(ウィッチ、ニイ、サ〜ン、シー、グォー、ロ〜ク、シィ〜チ、ハア〜チ、クー、ジュウーと眼下の仙台の街へ大声で号令をかける。当然声が小さいともう1回!!となる)。冬合宿(1年と2年が合宿所に泊まる)には夜襲というのがあり、3年生の先輩が夜寝込んだ頃に突然乱入し、雪のグランドを素っ裸で走り、広瀬川での水浴びとなる(昔は水風呂といってそれに入ったのだが、一度死にそうな目に会いそれは止めたと聞いている)。ちなみに夏合宿では試胆会というのがあって、よれよれになっている合宿の中日に突然普段着になって街へ出る。なんだろうと思うと、2年生の指示で仙台のアーケード街の中央通り通藤崎デパートの横あたりで、電柱に登って「セミ」になったり(ちゃんと羽も用意されていた)、空き缶を置いて「乞食」になったり、箒をもってバンドをやったり・・・(ようやったなあ!)。あれ、なんだか、合気道部の思い出になってしまっている・・・。
 実はこの大学合気道部1年生の時、当時の奥村繁信師範(現九段)から当時大学を出てまもない植芝守央先生(現道主、植芝盛平開祖のお孫さん)が師範となられた。当時ももちろん偉い先生なのだと認識はあったものの、1年生から出たこんな質問が印象に残っている。夏合宿だったと思うが、夜の懇談の場で「先生は何段なのですか?」それに対して「私は段位を出す方なので、段位はありません」と応えられた様に記憶している。そうかそれはスゴイなあと思った。
 3年生で幹部になる時に主将という重責を担ってしまったが、その理由は私以外で残っていた他の同期メンバーはみな理系で、3年になると実験があって稽古の最初から出れない、文学部の私がほとんど間違いなく最初から出れるからということだった。しかし、我々の二代上も一代上も工学部と薬学部であったから、結局みんないやで、私にさせる為の口実であったと思われた。それにしても私の代(18代)から21,22代頃まで部員数が少なく、植芝守央先生を師範と仰ぎながら、申し訳ないと思っていた(しかし私の代の前後を谷間として、部員数はその後V字回復をはかる)。
posted by じんさん at 15:25| ☔| 合気道 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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