2つ目の会社は最初と比べると極小規模の会社であり、大西先生の事務所といってよかった。しかし、会社が小さいと社外の人脈は広がった。リクルート時代は営業のお客様を除くと、社内の人間との付き合い(もっぱら飲ミニケーションのことだが)で精一杯であった。今度はその逆である。先生は勉強会などの交流会を主催するのが好きで、それが「ABC倶楽部」であり、毎週火曜日の朝飯会「火曜会」であった。しかもありがたいことに、私が入ってから、元々やっていた勉強会にプラスして多くの会を始められ、その殆どの事務局も担当させていただいた。東京には地方本社の会社で単身赴任者が多いということで「東京単身赴任者の会」、当時私は30代初めであったので若手中心の「ニューリーダーの会」、「新しい研修を考える会」など。そして先生の入っていた経済界クラブなどの例会への代理出席、それこそ経済界のお歴々が来ていて、そこで必ず名刺交換は10枚以上などと先生に言われ、いつも名刺持って、挨拶に回っていた。そうして名刺交換した方には、あの柳生但馬守の言葉を印刷した葉書をお礼状として送った。
「知恵の輪」は、東京でのサラリーマンの勉強会が、隣の会は何をしているのかということで相互交流の横のネットワークとして集まり、1985年に第1回の交流パーティを開催した。代表は人脈の本でも有名な下村澄さん(当時は毎日放送社長室)。大西先生も当初からの世話役の一人であった。私は第6回(1989年)の東京湾船上パーティと第10回(1993年)横浜大会にABC倶楽部、火曜会として参加した(途中の、7回、8回、9回は地方に出かけ、それぞれ新潟、広島、熊本で大会を実施。先生が参加し私は会社の留守番であった。)。その第10回「知恵の輪」横浜大会で出会ったのが北海道滝川市の水口正之さん。北海道でのお友達ネットワークの入口であり、交差点であり、その後プライベートでも大変お世話になる。
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